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2010年3月10日 (水)

悪法も法なり なんだってばよっ

今回は悪法も法なりということについて考察してみたいと思う。

そもそも法律とは何かというと
ネットで検索すると下記のような記述が見られる

----引用はじめ------

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/法律

法律(ほうりつ)とは、野放しにしておくと平気で地球さえも食い荒らしかねないほど蛮勇を奮う、自制の聞かない愚昧な人間どもにリミッターを掛けるべく施されるボンデージである。このボンデージを着ずに外をほっつき歩くと公衆わいせつ罪で逮捕される。


---引用終わり----

とにかく締め付けるものであるかと思われる

そのなかでいったい何をもとにすするかと言うならば
法律のなかに真実ということを定義しなければならない

----引用はじめ------

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/真実
「真実はいつもひとつ!」~ 真実 について、江戸川コナン
真実(しんじつ)は、いつも一つではない。

---引用終わり----

そうまた真実というのは決してひとつではなく複数の事実から出来上がっているのである。

しかし真実というのはいったい何処に存在しているのだろうか。
もう一度ネットの辞典より見てみよう

----引用はじめ------

http://ja.wikipedia.org/wiki/真実

真実(しんじつ)とは、本当のこと。偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかにされる事をいう。

「真実は複数あるが、事実は1つしかない」のように良く言われる。多くの場合、真実は事実に対する人の評価(真偽)を伴う。そのためしばしば、「信念」や「信義」と連関する事がある。その意味で、真実はカントの言う権利問題である。真実および事実は認定が必要である。裁判所における「事実認定」には、カントの言う事実問題における認識のほか、同じく権利問題における認定を伴う。

権利問題のクラスにおいては、真実は人によって認識(認定)が異なるとするのが通常である。しかし、事実問題のクラスにおいて見ると、1つであると通常は考えられている事実も、一義的なものではないとされる。

一般的な意味においては、認識の主体と客体について考えてみると、「現実」は主体から見た客体に対する視点の問題であり、「実在」は主体から分離された客体としての「存在」であり、「現象」は主体が認識した客体であり、また「存在」は「現象」により構成される。

そのため、「主体」は「現象」により構成されないものを「存在」として認識する事ができない。そう言ったものをカントは「物自体」として仮定した。

---引用終わり----

つまりは真実とはそれぞれの視点から見た物から事象から異なっていることを注目しなければならないのである。

そてそうなってくるといったいなにが法律を支配しているのだろうか。

----引用はじめ------

http://ja.wikipedia.org/wiki/法の支配

法の支配における「法」(Law)[1]とは、コモン・ローおよび国会が制定する個々の法律(a law、laws)のうち、基本法(Fandamental laws)のことを指す。

法の支配は、歴史的には、中世イギリスの「コモン・ローの優位」の思想から生まれた英米法系の基本原理である。

法の支配は、専断的な国家権力の支配、すなわち人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の権利ないし自由を保障することを目的とする立憲主義に基づく原理であり、自由主義、民主主義とも密接に結びついている。

---引用終わり----

つまり、法律というものは歴史とともにまた国とや論者によってもまた異なっていることに留意しなけりばならない。

そうなってくるといったどういったことが導かれるのだろうか
論理の飛躍が多少あるかもしれないが一例を挙げよう。

映画ランボー Firest Blood 一人だけの軍隊のなかで
「私が法律だ」・・・正確には「森では俺が法律」

そういったねじ曲がった理論も出てくるのである。


ここまでいうとあるひとつの疑念もわいてくるものがある。

悪法も法なりである
かのソクラテスが「悪法もまた法なり」と言ってる。

----引用はじめ------

出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』
[編集] 日本語
[編集] 慣用句

悪法も又法なり(あくほうもまたほうなり)
悪い法律であっても法である限りは守らなければならない。

---引用終わり----

確かにそうかも知れない
しかしここで問題提起をしてみよう

先に述べた「法の支配」においてさまざまな立場、歴史、論者によって
変わると言う事である。

そうなってくるとある仮説を導き出すことができるのではないだろうか。

【法律は道具である】

その時々の時代によってまた人によって
使い方が変わってくるものである。

そして法もまた使い方によっては道具になるものだろう。


追記-----

パクってレポしようとする方へ
この文章にはトラップがしかけてあります

また
本当のマジメな文章わかりやすく紹介してくれるのなら
コメントください

あっしは法律の素人ですから

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